おさいとうの夜

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今日の夜は、おさいとうだよ。


帽子、かぶった? かぶった。
手袋、つけた? つけた。
防寒、大丈夫? ばっちり。

子どもにはスキーウェア着せて、靴下も二重にして。
団子木下げて。
ヘッドランプ点けて。


さあ、行くよ。






おさいとうについて

本日のお題は、(ちょっと時季外れになってしまいましたが)新年の地区行事、「おさいとう(お柴燈)」について書こうと思います。

おさいとうは、大きな火を焚き上げるお正月の行事です。
地域によって内容は異なるようですが、火を焚き、その火で古いもの(前年のもの)を燃やして、新しい年を迎える
この形は基本的に共通して同じようで、山形県各地で行われていた(いる)と聞きます。

朝日町では、現在も地区単位で行われています。
自分の地区以外のことはあまり知らないのですが、周りの何人かの方にお聞きしたところ、大体どこもほぼ同じ内容のようでした。
地区の中の開けた適当な場所で、木などを高く組み上げ、大きな火を燃やす。
(ところによっては、神前で祝詞を奉じた後、その場で火起こしし、その火でおさいとうの木に点火する…ということもあるようでした)

とっぷりと暮れた冬の夜闇の中、広野に一点、ぼうぼうと大火が燃えさかる。
その眺めは圧倒的です。
集まってきたお隣さんご近所さんとお神酒を回して、挨拶と世間話をかわしあい、火が燃え、煙が上がり、やがて焼け落ちていくのを眺めます。

だんなさんに聞いたところ、我々の地区では割とラフに「燃やしたい、燃えるもの」を持参し火に投げ入れてもいいことになっているようで、「もう使わない教科書」「古くなったテスト」…なども例に上がっていたそうです。
調べてみたところ、山形県内の他地域では「おさいとうの火でお習字の紙を燃やすと、字が巧くなる」とされ、毎年子どもたちにお習字をさせていたところもある模様。
テストの例には案外、そう言った願いや昔からの慣習も含まれていたかもしれない…などと、勝手に妄想をふくらませたりもしましたが、どうかな。
うーん、勘ぐり過ぎかな、やっぱり。


おじいちゃんおばあちゃん、そのもっと前の時代から、山形の各地で様々な形の儀式として取り組まれていた、おさいとう。
昔は朝日町各所でも、もっと様々な手順を要するものとして行われていたのかもしれません。
現在のおさいとうは、今住んでいる人・取り仕切る人たちに負担にならないよう、ある程度簡略化した形で行われている行事だと思われます。
個人的には、昔から伝えられてきたものの貴重さやすごさも理解できるけれど、やっぱり最後に大事なのは人の方だと思うわたし。だからそうして、人に合わせて物事の形を変えられるところの方が、なんとなく自然体で生きやすいなあと思ったりします。

完璧に個人的な感覚だけれど、朝日町は相対的に、そういう「変えられる」柔らかさがある地域のような気がする。
そんなところだったから、よそからやってきたわたしたちも、割とありのままの形で受け入れられ、日々を過ごせているのかもしれません。余談。

団子木の準備

さて、そんなおさいとうの準備ですが、火を燃やす木については、我々の地区では毎年役員さんが担当して下さり、当日の日中にささっと組んでおいてくださいます。

焚き木を組んだこともなければ、それらの材料を集めてきたこともないわたし。
当日の日中、ものの数時間で組み上げられた木々を目にする度、
「役員さんたちは一体いつからこれに取り掛かって、どんな手順で、どれくらいの手間ひまでこれらを完了させているんだろう…すごいなあ…」
という気持ちになります。
自分にはとてもできないことは、無条件に頭が下がります。

一方、各家庭で準備するものもあります。
団子木です。
必須、というものでもないでしょうが、おさいとうと言えば、団子木が付き物。

団子木は、文字通り木の枝に団子をさげたもので、おさいとうの火で団子をあぶって食べると一年間元気でいられる。という縁起物。
あぶったその場で、ご近所同士で「ほれ食べてみろ」「ほれうちのも」…と交換し合う景色が見られます。
それぞれのおうちのレシピで団子が作られているので、その味わいには微妙な違いが。
我が家は団子の味もあぶり加減も全く熟達していないので、いつも頂くばかりで、よそさまにお勧めしたことはないですが…いずれ、どなたかに「どうぞ」と言えるくらいになるのかなあ。



とかいところに住むようになって、毎年団子を自作するようになったわたし。
ふつうの団子粉で作る、ごくふつうのお団子。
でも今年の我が家はいちひめが参戦して、にぎやかになりました。

泣いたり笑ったりしながら、こんな風にがちゃがちゃ、作りました。

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おさいとう、当日

さて、おさいとうの日になりました。

今年のおさいとうは、午後6時から。
だんなさん曰く、「皆揃ったな、という感じになると、時間になってなくても始まっちゃうことがある」というので、我が家は5時半くらいに家を出ることにしました。

我が家からおさいとうの場所までは、歩いて10分ほど。
さすがに背中ににたろう、片手にいちひめの状態で雪中行軍するのはつらい…。
ので、近くまで車で行きます。
子どももまだ小さい、母ちゃんは雪の扱いが下手くそ。
そんな我が家は、この真冬の真っ最中、暗くなってから出歩くことはまずありません。
見渡せば、そこら中がとっぷりと闇。それだけで「おまつり」だ、という特別な気がしてくる。

道中、観音さんにお参りをします。
地区の中の、観音さん。
普段は積もった雪でお堂の前まで行けないのですが、この日はどなたかが掃いて道を作ってくれていました。
ろうそくの橙色が強くて、いつもと違う景色に見える。



 神様、今年もどうぞ、よろしくお願いします。



5時50分頃、細い暗闇の道をぬって進むと、焚き木の周りにはもうずいぶん人が集まっていた。
ちょうど点火をしようかという頃でした。
その年の年男が火をつけるのが縁起がいいとされているようで、我が家は(厳密には年男ではないですが)昨年生まれたにたろうに水を向けてもらいました。
もちろんつけられる訳は無いので、形式上はにたろうということにして、お父ちゃんが代理で火つけの一人に参加。




ぽっ、


点火された火は、みるみるうちに木の上を駆けあがり、


夜に眩しいくらいの、大きな光になります。





おさいとうに参加するのは初めてではないけれど、日ごろから忘れっぽいわたしの頭は、毎度新鮮な驚きがあります。
すごいすごい、燃え上がってきた。
なんて、明るいんだろう。
火って。


挨拶の合間に、お神酒とおつまみが、めいめいに配られます。
光がつよくて、ご近所さん方の顔は、良く見えない。
不思議な気分です。
皆、近くに佇んでいるのに、同じ火を誰かと見ているのに、やっぱりひとりで見ているような。


せっかく年男扱いで縁起がいいのに、にたろうはいつの間にか寝てしまいました。
いちひめは火の勢いを怖がって、影になっている場所から動こうとしません。わたしとだんなさんが火に近づこうとすると、だめ!と厳しく制止します。
取り残されるのが心細いのと、火の危険から守ってくれようとしているのと、両方の気持ちがある様子。
そう言えばお友達も、おさいとうの火を見て「火事だ!消防車!」と叫んだそうです。
こんなに大きな火、普段見ることないもんね。


そうする間にも、火はどんどんどんどんと、高く大きくなっていきます。
焚き木をのむ。
煙がわいてくる、火の粉が飛ぶ。
空をなめるように、広がっていく。


ああ、火って「勢い」なんだ、と思わせる景色でした。
止まらないもの、どこまでも進んでいくものなんだな。
そう言えば火事の現場でも、怖いのは延焼だって、聞くなあ。



ぐんぐんぐんぐん、下から上へ、すさまじい力が昇っていきます。




――こんなに「上へ進む」ものって、他にないかもしれない。



ふと、思いました。
水も、重力も、上から下へと力が働く。
風は上へも下へも進むけれど、人が意のままに扱うことができる部分は少ない。
人の手が介入できるもので、「落ちる」ではなくて「上昇する」ことができる力。
他に、あるのかな。


人間が、天とどうにかして、つながりたいと願う。
そうして空を見上げるとき、託せる手段って、他にあったんだろうか。


…だから、火なのかなあ。ものすごく感覚的ですが、そんな風に思いました。
上がっていくもの、天まで届くもの。
巧くなりたいお習字も。
お別れしたい、古い何もかも。
紙の上にのせて、大火にくべて、煙と火花の背にのっけて、天まで届けてもらおうとしているのかも、しれない。


火に照らされた煙の端は、淡い桃色でした。
春の色、お日様の色。
その色を見ていると、そこから新しい季節が流れて、ここまで運ばれてくるような気もする。
大きな火を焚いて、雪と氷のかたい季節に裂け目をつくって、春を呼ぶ。
一方では、おさいとうはそんな行事なのかな、とも思わせる色でした。


・・・

やがて火は燃え落ち、来た時と同じく、それぞれ三々五々帰路につきます。
にたろうは火がずいぶん小さくなってきてから、やっと目を開けました。
少しでも、何かの刺激がもらえていたら良いな。

今年はいつもより焼け落ちるのが早く、だんなさんは「コロナだから、できるだけ早く終わるように、小さめに組んだのかな」と呟いていました。
そうだね、去年はこんなとかいところでも、コロナコロナだったね。

今年は、この一年は、どうなっていくかな。

後日談・団子の思い出

団子木は、その後持ち帰って、玄関前の雪中に挿しておきました。
持参したお団子は食べもしますが、何個か残しておいて持ち帰り、そのまま飾っておくと縁起がいいのだとか。
もこりと雪の帽子をかぶって、静かに佇んでいました。




団子といえば、おさいとうが終わりかけた頃、大泣きして駄々をこねた、いちひめ。
何かと言うと火であぶった団子の味がよほど美味しかったらしく、「火のお団子をもっと食べなきゃ嫌だ」と、泣いて聞かなかった。

いちひめは目下、地区の中でほとんど唯一の幼児です。
ありがたくもご近所さんからいつも優しい言葉をかけてもらっており、今回も美味しいお裾分けをたくさんいただきました。

あぶったお団子は、格別の味。
ちょっと煤けた薫りがして、外側はぱりっと、中はもちっ。
アツアツで、ハフッ、ハフッと頬張る。
…おいしいよね。
何を隠そう、母ちゃんも好きです。自分のところのお団子は本当に普通だなと思うけど、長年参加してきた地元の方の味はすごく美味しくて、頂けると内心すごく嬉しい。

…でもいちひめ、5~6個食べたから、もういいべや。
さすがに。
そう言って聞かせるのだけれど、子どもにその理屈は通じなかった。
涙は止まらず、結局帰り際に結局ご近所さんからまた新たにお団子をもらい、途端に幸せそうな顔に戻ったいちひめでした。
現金なやつめ…。


…そんな訳でいちひめの中では、おさいとうは「お団子が美味しかった」記憶として残っているようです。
今でもいちひめは時々、「また火で焼いたお団子、食べたいね」と言います。まさしく、花より団子。
でも来年また一緒にお団子作って、また皆で一緒に行きたいね、とは母ちゃんも、思う。
大きな火のまわりで、新しい年のごあいさつ。


気が付けば3月半ば、春の気配が色濃くなっています。
あの時呼んだ気がする、新しい春。
新しい一年。

ここから良い春が、また始まっていきますように。



(2021年3月)

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