山のめぐみ⑥ フキのあれこれ

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マヨです。

前回も書きましたが、春の山は、宝尽くし。
毎日食べられる草花が、ぽこぽこと出現します。

昔は「お金がなくなっても、里山に一定期間入ったら大丈夫(食いつないでいけるから)」と言った…
とか読んだことがありますが* 、わたしくらいの自給力でもそう感じさせるほど、食材豊富なこの時期です。

本日以下に書き留めるのは、その中でも春の先を行くフキノトウです。

(画像はすべて、クリックで拡大します。)

四月のフキノトウ



フキノトウ…フキの花茎。

「雪の下」とも呼ばれ、雪と氷がまだちゃんと残っているような早い時期から顔を出し始めます。
我が家はやや季節の到来が遅いので、4月上旬でも結構な雪の塊が残っていたりして、ちょうどその頃庭や側溝のそばで収穫することができます。






フキノトウの色は、光をはじくような輝く黄緑色。

道の端、庭の真ん中、去年土砂の崩れた斜面の上。
そこら中から淡いつぼみが吹き出し、日々成長していきます。
ちょこり、ちょこりと庭先から顔を出す様が、愛くるしい。
でも一日放置すると、たちまちぐんぐん大きくなって、ぱかーん、と花開いてしまう。
かなりの瞬足ランナーです。

力をこめて摘むと、指のまわりが独特のほろ苦い香りでいっぱいになるのが、嬉しい。




食べ方は色々です。
我が家はよく昼ごはん前にその辺から摘んできて、手抜きランチのパスタに入れていただきます。
案外、クリーム系などコクのある洋食にも合う味わいです。
ほろ苦い香りと味わいが、冬のこわばりをゆるやかにほどいて、流していってくれる気がします。

フキノトウに限らないけれど、山菜の味は、ああ、季節を食べてるなー。と毎回実感させてくれる味わい。
この季節だけの、贈り物。
そして地味に食費が浮くのが嬉しい…主婦としてはこれもまた、季節の贈り物かと。

  

五月六月、大きなフキの葉

フキノトウはその後ぐんぐん育ち、立派なフキに成長します。
5月にもなると大きな葉を傘のように広げ、庭でわさわさと幅を利かせています。

フキノトウもフキの葉も、山中に住んでいる方にはお馴染みの植物。
食べもするし、遊びもするし。
そう言えば前に、近所のおばあちゃんが目の前で見せてくれた。歩く道すがら、ぽきっとフキを手折って上手に受け皿みたいにして、中の水分を飲むやり方。
「昔は皆、こんな風にして飲んでたんだよー」、なんて言っておられました。
手際がくるっと見事で、少し見惚れた。
見よう見まねで折ってみたフキの切り口からは、フキノトウと同じ、ほろ苦いさわやかな薫りがします。


ところで、フキの葉の下には、コロボックルが住んでいる。
…とは有名なアイヌの人々の伝承ですが。
コロボックルというとわたしは、小さい時に読んでもらった『だれも知らない小さな国』という物語* を思い出します。
このお話に登場する、「小さな国」の住人たち・コロボックル。
普段は人目につかないように暮らしているのですが、お出かけの時にはアマガエルの衣装を身につけ、擬態して行動するという…。
それがなんとも魅力的で、ついアマガエルがいたりしないだろうか…などと探してしまったりします。


子どもが空に向けて手を振ったりまなざしを向けたりすることはままあると思うのですが、我が子もそういう時があり、見るにつけ、
「もしかしたら、子どもにだけ見えるものが、あるのかな」
「家の神様とか。
フキの下の、神様とか」
もしそうだったら素敵なんだけどなあ…、などとラチもないことを考えて、ぼんやり見ていました。


子どもにだけ見える世界が、もしもあってくれるとしたら、こんな感じかな。
我が家の庭は、緑が伸び放題にて、きっと探検しがいのあることでしょう。

(コロボックルの絵は、『誰も知らない小さな国』より村上勉さんの挿絵を模写させていただきました)

  

  

*この記事で触れた書物たちについて

ご興味のある方へ。

・内山節『「里」という思想』(新潮社、2005年)

「近代化社会の申し子といえるグローバリズムは、継承される技や慣習、説話など、私たちの足元にあった「もの・こと」を次々に解体していった。その結果、私たちは手ごたえのある暮らしや幸福を喪失してしまった。確かな幸福を取り戻すヒントは「里=ローカル」にある。「現代人の不幸」を解析し、新しい生き方を提示する思索の書。」
(新潮社のあらすじ紹介より)

…あらすじだけ読むと、小難しそうな感が強いですが。
要は、
「世界中で同じ物事を手にできるようになった影で、昔はその地域ごとにあった在来のもの・こと、ルールなどが無くなっていった」
→「そのために、暮らしの中から実体感が消えてしまった」
→「昔のやり方が残っているローカルな暮らし方に、それらを取り戻すヒントを探っていこう」
…というのが、かなり乱暴なあらすじかと思います。
この中で、冒頭に挙げたようなお話がのっています。

「手ごたえのある暮らし」というところが、自分にはすごく気になって、面白く感じた本でした。
まさか約十年後、本当に山の中で暮らしているとは思ってもみなかったけど…。
今「とかいところ」で味わう諸々の気持ちや体験と、この本で取り上げられている「手ごたえ」は、かなり通じるところがあるのでしょうね。

(ただ実際山に住んでみて思うのは、単純に「好き」だけで住み続けていけるほど、中山間地域を取り巻く現実は決して甘くはないということでしょうか…)

・佐藤さとる『誰も知らない小さな国』(講談社、1969)


「小学校3年生のときだった。もちの木をさがしにいったぼくは、こんもりした小山や杉林にかこまれた、三角形の平地をみつけた。小さないずみがわき、まっかなつばきの花のさく、どこかふしぎな感じのする場所だった。
ーーそして、とうとうぼくは見た。小川に流れていく赤いくつの中で、虫のようなものが動いているのを。小指ほどしかない小さな人たちが、手をふっているのを!」
(講談社のあらすじ紹介より)

この小さな男の子がやがて成長して、山に住みついてコロボックルたちと出会うお話です。
シリーズ化され、そのほかの物語もたくさんあります。

個人的な思い入れですが、主人公が山で小屋を立てたりするのですが、それがなんとなく「秘密基地」めいた部分があって特に好きだった気がします。
この家でなんとなくこのお話を思い返すのは、主人公の「山暮らし」の印象が強くて、親近感を覚えているのかもしれません。

今回改めて手にとって、自然の描写がすごく細かいことに驚かされました。
でも、よく分からない長いだけの説明文ではなくて、すごくよく分かる表現の仕方。読んでいて、その場所に連れて行ってもらうような気になります。

作者の「あとがき」を読むと、表題の「小さな国」という言葉には「(コロボックルのことだけでなく)人が、それぞれの心の中に持っている、小さな世界」を、自分のそれも他人のそれも大事にして欲しい、という願いがこめられていたようです。
山の描かれ方を見ていると、きっと佐藤さとるさん自身の「小さな国」と、丁寧に描かれている自然の風景は重なっているんだろな、と思わされます。

村上勉さんの細かな絵も素敵、植物の名を冠しているコロボックルたちも素敵。
あまりに有名な本でしょうが、わたしも大好きな一冊です。
大人になってお母ちゃんになって、また読み方も変わったろうな。改めて、読み返したい一冊。



追記:いつも見てくださっている方、応援してくださっている方、SNSでポチポチやってくださっている方々。
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(2021年5月の終わりに)

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