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今のわたしの目に映る、この町のイメージ図。
こんな感じです。
ちょっと夢見心地すぎたかもしれないけど。
気が付けば、この家に転がり込んで五年目になっていました。
それだけ経って、やっと肌身で「わかる」ことも増えてきた気がする。
この町のこと、暮らしのこと。
とかいところのこと。
いいことも、悪いことも。
今日は「とかいところ五年生」なりの、ここの暮らしのことをつづります。
(画像は全て、クリックで拡大します)
「階段」で行き来するような、暮らし
先日、ふと思いました。
ここの暮らしは、「階段の上り下り」に似てるな…と。
世間で俗に「スローライフ」と言ったり、「田舎暮らし」と言ったりします。
でもそこに漂う(気がする)「悠々自適」感に何となく、モヤっとしているわたし。
なんだか素晴らしいことしかないみたいで、それはちょっと違う気がする…(そんな場所、地球上に存在しないと思うけど)。
と、その時ひらめいた。
そうだ。
これ、「階段」と似てる気がする。
「階段」と「エレベーター」(エスカレーターでもいいですが)を比べてみると、「階段」はいい時も悪い時も、歩くペースで進んでいきます。
自分のタイミングで立ち止まったり歩き始めたりできるし、まわりの景色を楽しむこともできる。
でも一方で、具合が悪い時も荷物が重い時も、自力で進まなくてはいけないという側面もある。
エレベーターのように、どんな時でも誰でも、乗っかれば楽に速く移動できるわけではない。
「とかい」ということも、そういうことのような気がします。
あるいは、この町のように住民の少ないところ、田舎のところ。
個人差あれど、不便さはどこかにあって、生活の中でちょっかいをかけてくる。
お金を出しても、近場では手に入らないサービスや物があったりして、その分自分で体力を使ったり時間を使ったりしてなんとかしないといけなかったりする。
この不便さは「今日、ちょっと頑張ればいい」…では済まない切れ味を持つこともあるんだろうな、と最近思うようになってきました。
自分の通勤、子どもやお年寄りの送迎、誰かの通院、日々の買い物。
健康でない時。
毎日、何もかも階段移動で行うとしたらどうか。いつも「ちょっと頑張ら」ないといけないとしたら、どうか。
…
毎日だと、家族の分までだと、きついよ。無理だよ。と言うことは、すごくあると思います。
エレベーター付きのビルに引っ越すという選択をすることも、あると思う。どんなに以前の住居に愛着があっても。
こういうことを思うのは、町を出ていく人も外が好き、都会が好きだから積極的に出て行く、ということばかりではないんだろうな…たぶん。
と思うようになったからです。
ここに住んで、「だんなさんのお嫁さん」「いちひめ・にたろうのお母ちゃん」としての立場を得て、多少なりとも袖すり合う関係性ができてきて。
「とかい」ということ、少子化ということ、過疎化ということが、どういう風に暮らしの中に影響するのか、ちょっとずつ身にしみてわかってきて。
階段をずっと上り下りするの、きつかったって人もいるんだろな。
これまでに交わした言葉や表情の数々を思い返して、そんな印象を抱くようになった、現在のわたしです。
…ちなみにこの不便さに対して、うちも決して「よそごと」と構えているわけではないですが、奥地に住みつつも「時々ちょっと不便」くらいにしか感じていないのは、まずはやっぱり自営業で暮らしていること(職場が自宅)が大きいんだろうなと思います。
(詳しくは、仕事と生活の仕方・2で触れています)
「今」をかみしめられる場所
それでも、やっぱりほっこりする。
他ならぬ、この場所が。
朝、美しい鳥の声が聞こえてきて、ほっこり。
窓から風を入れながらお茶をして、ほっこり。
子どもたちとの散歩道、ほっこり。
暑い夏、しみるように冷たい沢水で手を洗って、ほっこり…。
なんだか、すとんと地に足がついて、落ち着く。
実はこの気持が、わたしの場合は育児や家事に向き合う上で、すごく支えになってくれています。
ゆっくりした子どもの時間で、一緒に何かやってみようと思えたり。
自分でも見よう見まねで栗の皮むきやってみたり、おいなりさん作ってみたり。
そんな時、わたしは自分の足元に、ちゃんと「今」があってくれる気がします。
「今」という時間の味わいを、ちゃんと噛みしめられている。
自分にとってどんな味のものなのか、ちゃんと伝わってきている、という気が。
階段の道を行くように、手間はかかる、暇もかかる。
でもその分、自分が「今」どこに居るのかを、一歩ずつ確認できる。
それは、わたしが日常に向き合う時間を、下支えしてくれる。
お母ちゃん五年目のわたしにとっての、「とかいところ」の大きな意味合いです。
…などと、夕飯のワンタンを用意しながら思いを馳せる。
ちまちま、ちまちま。
めんどくさくない、と言ったら、嘘になりますよ。ええ。
肌身で感じる物事
(右から左へお読みください)
ここには、「体」で「験」してみられることがあふれています。
のびのび、走り回れる広い場所があって。
自然に暮らす生き物がいて。
それから自分のことを知って、名前を呼んでくれる人たちがいる。
手で、足で、目で、耳で、鼻で。
からだ全部で感じて、知って、自分のものになる。
「わかる」ことの幅が、広がっていく。
オンラインでできることが増えてきた、今日だからこそ、自分のまわりに、そんな「肌身で感じられる」ものごとが散らばっている。それも、当たり前のように。
そのことが、まずはとても幸いで嬉しいことだと思っています。
(そしてそれは「誰か」のおかげでやっと成り立っている…ということが沢山あるとも思います。草刈りしかり、消防しかり、遊び場しかり…。
今は自分のこと、子どものことで手一杯なわたしですが、せめていつでも心は、最低限「よそ任せ」でいないでいたい、とも思います)
まだまだ、毎日に飲まれるように過ごしています。
(2021年・7月)
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