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※ 今回「とかいところ」と全く関係ないことをつづってしまいましたが、お目こぼしください。
※ 自分が好きな「翻訳する」ということについての、雑考です。
マヨです。棚を整理していたら、懐かしいものが出てきました。
恥ずかしさもあるけど、思い切ってご開帳。
17歳の頃に描いたものです。
こちらでも少し書きましたが、この頃、イタリアのボローニャと言う街に住んでいました。
当時は言葉が全く分からず、常識もさっぱり分からず、自分がまるで異界に放り込まれてしまったかのような気持ちで、街を、学校をうろうろしていました。
(今だと、同じことをとても自分の子どもにしてあげられん、連れて行ってくれたお父さんお母さんありがとう! …と思うのですが)
自分の意図をどう伝えれば良いのか分からず、対面する集団が投げかけてくるコミュニケーションの、サインの、何もかもが理解できずに恐ろしく。
借りてきた猫のようになりながら、びくびく鬱々としていた頃の絵です。
雨の日、窓から見えた景色。
暗いけど、その時内側にためこんでいた確かなものを感じて、自分としては割と気に入っている一枚です。
* * *
当時は悩まされた「言葉」の壁ですが、今ではそんな「言葉」を置き換える作業がとても好きです。
どんなところが好きなのかと言われると、たとえば、
「あなた、何の仕事をしているの?」。
そんな何気ない一文でも、どこに「重心」を置くかで、文章の形は何通りも考えられます。
もしかしたら。
この人は働き手を募集していて、相手を雇ってみるつもりで聞いているかもしれない。
それとも、ふらふらと遊び歩いているように見える相手を、たしなめるつもりで言うのかもしれない。
問いかけの形だけれど、答えはそもそも、必要としていないのかもしれない…。
この文章の、「らしさ」って、どこにあるんだろう。
「本当に聞きたいこと」って、どこなんだろう?
それは前後の文脈や背景を知らないと分からないことだけれど、そういう意味では「正解」は無数にあります。
考える人の数だけ、想像力の数だけ、限りなく。
それを何パターンも考えてみるのが、楽しい。
* * *
そして一方で、導き出された答えは、絶対に元の言葉とは、同じものにはならない。
そんなところも魅力です。
イタリア語に「訳することは、すなわち裏切りである」(Tradurre è Tradire: トラドゥッレ・エ・トラディーレ)という言葉遊びのような一句があるそうです。
限りなく近づけることはできるかもしれないけれど、原文と訳文は、同じものには絶対にならない。
そうした意味合いの言葉です。
これについて先日だんなさんと話をしていて、面白い例えに行きつきました。
ものづくりをしているだんなさんへ。
「たとえば北海道土産の「木彫りの熊」を、あなたの専門分野の金工で再現せよ、って言われたら、どうする?」
…という、問いかけ。
それは、モデルとなる作品のどこを「本質」としてとらえるか。
そして、それを再現しようとする人が使う道具、技巧によってもまた変わってくることです。
「木彫り」の「熊」の「らしさ」って、どこなんだか。
それを自分は、どうやって作り直してみるんだか。
どんな道具を使おうか、どんな技巧を使うか。どんな色、形にしようか。
出来上がったものは、もしかしたら熊の形にさえ、見えないかもしれない。
そしてそれは元の木彫りの熊と、どこかで深く相通じるものをもっているかもしれないけれど、絶対に元のものとは「違うもの」にしかならない。
「翻訳=裏切り」という言葉の意味は、これと同じところに潜んでいると思います。
限りなく近づけることはできるかもしれないけれど、絶対に同じものにはならない。なれない。
だって、全く違うものを使って、違うやり方で組み立てるのだから。
ある言語からもうひとつの言語へ訳してみるとき、そのどこまでも埋まらない溝のようなものが悲しくもあり、面白くもあり。
そういうものだからこそ、自分は翻訳という行為が好きで、言葉と言葉の変換装置みたいになってみることが楽しくて仕方ないんだろうなと思います。
* * *
振り返ればこの絵も、かつて住んでいたあの日、あの街を描いたもの。
「言葉の再現」の話を書いてみるつもりでしたが、「描く」こともまた、同じように「再現」なんだなあと思って見返してみました。
あの頃は、とにかく暗くて感傷的だった。
今みたいに、心の安定感も無かった。
いつも「どこかで何かが、大丈夫じゃないかも」と感じていた…。
街そのものの変化もさることながら、まず自分の心理状態が全然違う。経験したことも、想像力の行きつく先も。
ということは多分、今の自分の目ではもう見えないし、とらえられないし、描けない。
もう絶対に、手に入らない景色なんだ。
これらはそんな一枚ずつなんだ…と思って、なおのこと大事にしようと思いました。
…それにしても、17歳って、若いなあ。
「若い」ということ、それだけでとてつもない力と価値を持っていたんだなんてこと、あの頃はどんな大人が言っても信じられなかったな。
17歳級の記憶力も体力も無くしつつある今になってやっと、それを確信でき、リアルタイムでそれを信じてみれなかったことが悔やまれます。
最後に、それに近いようなイタリア語のことわざを、もう一つ。
「歯がある者にはパンが無く、パンを持つ者には歯が欠けている」
(Chi ha i denti non ha il pane e chi ha il pane non ha i denti)
一般に「ないものねだり」という風に解釈できますが、同じ人物でも年を重ねるにつれて身体的に衰え、一方で代わりに財や別の形の力を得ていく…。
そんな様を想像すると、いつまでもどこまでも、不完全でしかあれない人間の様子を皮肉混じりに言い表しているようにも受け取れます。
なんでも「ある」時には、分からないものなんですね。ありがたみって。
…ということで、今のわたしだって10年後のわたしよりはめちゃくちゃ若いのだ!ということだけを確信しつつ、めげず腐らず、精進したいと思います。
(2020年10月下旬・抽象的な話をここまで読んでくださった方、ありがとうございます)
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